
🌱 イラストレーターになりたかった私
昭和の頃の話。
中学校の宿題で「将来の夢」を書くっていうのがあって、私は迷わず「イラストレーター」って書いた。
絵を描くのが好きだったし、「いつかこんな仕事ができたらいいなぁ」って、本気で思ってた。
ところが、それを見た母がひと言。
「そんな仕事じゃ食べていけない。」
今なら親としての気持ちも分かる。娘に苦労してほしくなかったんだと思う。
母が父に相談したらしく、翌日には父から
「栄養士はどうだ?」
という新しいクエストが提示された(笑)。
栄養士なんて、それまで一度も考えたことがなかった。
でも、「人のためになる仕事なんだ」と自分に言い聞かせて、「よし、栄養士を目指そう」と方向転換。
……とはいえ。
イラストレーターへの憧れは、心の奥にそっとしまったままだった。
🌸 表現することが楽しかった高校時代
高校では気の合う友達ができた。
イラストを交換したり、一緒に歌をハモったり、オリジナル曲を作ったり。休み時間になると、何かを表現して遊んでた。その時間は本当に楽しかった。
でも、高校生活そのものが自由で楽だったわけじゃない。 学校は家から遠くて、毎朝ぎゅうぎゅうの満員電車。人の輪に入るのは昔から苦手だったし、勉強も思うようにはできなかった。
だからこそ、表現している時間だけは、ほんの少し自分らしくいられたんだと思う。
🌧 「栄養士になる」というクエスト
そして受験の季節。
本当は絵を描くことも、歌うことも好きだった。
でも、「栄養士になる」というクエストから降りることはできなかった。
歌友達は美術系の専門学校へ進学することを決めた。
正直、めちゃくちゃうらやましかった。
母にも相談してみたけど、「専門学校なんてダメ」という感じだった。
当時は、「大学を出て、それなりの会社に就職すれば安泰」という空気が当たり前にあった時代。女性も、働き続ける人はもちろんいたけれど、「結婚して専業主婦になる」という人生も今よりずっと一般的だった。結婚相手も「安定した会社に勤めている人」が理想とされる時代。だから、将来の結婚も見据えて「専門学校より短大や大学へ」という考え方が、ごく普通だったんだと思う。
高校3年の三学期になると、進路が決まらない子たちには自宅学習が認められた。
私も毎朝、茶の間のこたつで勉強してた。
……と言っても、朝の情報番組を見ながら(笑)。
「それじゃ勉強にならないだろ〜!」って、今ならツッコミたくなる。
そんな頃、バブルが崩壊した。
テレビは毎日のように大騒ぎ。
子どもながらに「これ、ものすごく大変なことなんじゃない?」と感じて、ただでさえ決まらない進路への不安が、さらに大きくなっていった。
そして卒業式当日。ようやく、とある短大の食物栄養学科への合格が決まった。
ホッとはした。でも……嬉しかったかと言われると、そうでもなかった。
🍳 栄養士になって気づいたこと
短大には2年間通った。
でも、料理は得意じゃないし、正直そこまで興味もない(笑)。
私は嘘をつくのが苦手だから、就職面接でも思ってもいないことを上手に言えない。
案の定、給食会社はことごとく不採用。
結局、事務職に落ち着くことになった。
……いや、「落ち着いた」と言えればよかったんだけど。
数字は苦手。
じっと座ってると眠くなる。
大事な書類をなくす。
というか、その書類が来ていたことすら覚えてない💦
忘れた頃に出てきて、「あぁぁぁぁ!これかぁ…💧」ってなりながら、こっそりシュレッダーへ……。
母の言う通り、収入は安定した。
でも、心はまったく安定しなかった。
「何か忘れてないかな。」
「また失敗するんじゃないかな。」
そんなことばかり考えていて、生きている心地がしなかった。
🕊 心はずっと自由を求めていた
「そんな仕事じゃ食べていけない。」
あの言葉は間違いじゃない。
生きるためには、お金は必要。
それは今でもそう思う。
でも、お金のためだけに生きるのも、やっぱり苦しかった。
心の奥では、ずっと思ってた。
「自由になりたい。」
「青空を自由自在に飛び回るみたいに、軽やかに生きたい。」
その想いは、今も変わらない。
だから私は、自分の子どもたちには、その子らしさを思い切り発揮して生きてほしい。
そして私自身も、残された時間を、自分らしく、伸びやかに生きていきたい。
🌏 私が願う未来
さらに言えば、私は今の歪んだ社会の仕組みが少しずつ変わって、世界中の人が、自分らしく、自由に、そして豊かに生きられる社会になってほしいと思ってる。
もう、自分らしさを犠牲にしなければ生きていけない社会は終わりにしたい。
私は本当に小さな響き。
でも、同じ想いを持つ人と共鳴したとき、その響きは少しずつ大きくなっていく。
そんな未来を、私は信じてる。

